2008年06月02日

猫に吠える憤怒の人

その日も俺は午後から寮を出て、予備校に向かって歩いていた。途中の交差点にある銀行の無人出張所の側面にさしかかると、建物の角の一番上、フラットな側壁の突端に猫の耳が見えた。屋上がどうなっているか分からないが、低いフチがあってその内側にいるらしかった。
毎日なんとなく見上げるその地点で、カラスを見たことは何度かあったが、猫は初めだったから、俺は得したような気分になった。通り過ぎようとすると「おわあ」と赤ん坊の寝言?のような声がした。もしやと思って、猫の耳が見えた地点まで数歩戻ってみた。「おわあ」やはり猫だった。猫は、長いヒゲの辺りまで顔を出して、不思議な鳴き方をしていた。「文学史」のテキストにそんな鳴き声を書いた詩が載っていた気がした。誰かに聞かせたいと思ったが、今の予備校にそういう友人はいない。むしろ猫と親しくなりたくなって、足元に落ちていた小石などを猫に当たらない程度に投げつけてみた。そうしていろいろ投げながら数分間、警戒心が強いはずの猫のリアクションを待ったが、そこで奇声をあげる猫の態度は少しも変わらなかった「おぎゃわあ」。鳴き声は少しずつ濁声になりそうな気配で、ちょっと嫌な予感がした。
「そろそろ行かないと」と一人ごち、改めて予備校に行こうと建物を通り過ぎた時、また不思議な鳴き声を、しかも今度は二匹分の鳴き声を聞いたのだった。「おわあわ」「ぎゃわあ」。
俺は思わず舌打ちして、先ほどより素早く、猫が見える位置まで戻った。先程の猫の上に、もう一匹の猫の顔があった。何故か俺は頭に血がのぼって、そこらじゅうの小石やゴミをびゅんびゅん投げつけてやった。ところがまたしても猫は俺を無視した。俺は苛立ち、腹立たしく、顔を真っ赤にして「バウバウ」と犬の真似などした。もちろん猫の頭は重なったままだ。ぶつけどころのない憤りと、隠しようのない恥ずかしさは、すっかり俺を憤怒の人たらしめた。
俺は、鞄を道端に捨て置き、建物の角の近くにある「消火栓」と書かれた赤い鉄柱に全身を絡めてよじ登り、その隣にある町内掲示板に片足を掛け、えいや!と不安定な掲示板の上に躍り出た。二匹目の猫の背中が見えた。そして、町内掲示板から滑り落ちるより早く、壁の角のフチを目がけてジャンプした。ガン!どこから出た音か分からないが、額と膝が壁に激突し、親指を除く四本の指が、左右とも屋根のフチに引っかかった。その位置から猫は見えなかったが、つま先と指先で体重を支えて顔を上げることが出来た。運動部あがりの筋力は衰えておらず、どうにか懸垂で登れそうな感触を得て「このやろう!」と声を上げた。
グイと利き腕に力を入れた時、どこに隠れていたのか、初老の警備員が俺を目がけて走ってきた。俺が次の動作を考える暇もなく、初老の警備員は渾身の力で、俺にジャンピングタックルを浴びせた。あっけなく俺は、警備員もろとも道端に転げ落ちた。更に警備員が絡んでくるので、諦めて体を任せていたが、警備員の背後では、2匹の猫がひらりと地面に降り立って、俺を一瞥すると建物の裏側の隙間にシャランシャランと尻を振りながら消えた。カチン!起き上がろうとすると、更に二人の警官が走ってきて、都合三人がかりで押さえつけられた。俺は「ちくしょお!」と喚いた。さりげなく膝蹴りを入れる警官に悪態をついたのではない。俺は猫を呼んでいたのだ。「ちくしょお!こっち来い!」

『文章王の掌編小説ゼミ』 5月度
完結した1400字以内の作品を投稿。

Posted by chitoku at 2008年06月02日 02:30 | トラックバック
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