実に単純なことだけれども、書いた文章の一番最初の読者は、書いた本人なのです。その本人が「変だ」と気が付かなければお話にならない。
自分の文章が気に入らないというとき、きっとその読みは当たっています、どこか変なのです。
自分の文章がとても気に入った、というときは要注意です。公表しても評判よろしくないとすれば、書く技術云々よりも「読者としてのレベル」を疑う他ない。つまり、一番最初の読者の「読みレベル」が低いのです。
書くことによって、何かを伝えたい、表現したいということだとすれば、何故書くことでなければならないのか。
話せばいいじゃないか。
何故、書くことに執着するかと言えば、他人の文章に魅せられて、こんな風に書いてみたい!と思ったからに他ならない。
他人の文章を「素敵だ!」と感じるのは、例えば街中で、他人の服装を「素敵だ!」と感じるのと同様なのである。
そのとき、その素敵な洋服やアクセサリーと同じものを身に着けたとしても、同じ効果が殆ど期待できないことを我々は知っている。その人、その人の体型、その人の顔つき、身のこなし、またそれぞれの組み合わせ、ほぼ無限の選択範囲から任意のひとつを選択することの困難さ!それは良く知っているのである。
我々は、「聞く」ことができなければ「話す」ことが出来ない。逆に、「話す」ことが出来ている時、「聞く」ことができるのは自明のことである。同様に、読めなければ書けないのである。更に言えば、正しく読めなければ正しく書けないし、深く読めなければ深みのある文は書けない。
文章そのものを読んで、その表現方法や語彙または構成などを研究しようとする時、内容やストーリーは二次的なものであり、文章そのものに直接関係はない。語彙を読み、係りを読み、それらを統合して初めて、文章の内容を知ることが出来る。
読む側に「読解」の努力が無ければ、書く側の意識も下がり続けるだろう。
「読解」の必要がない平易な文章に、果たしてどれほどの内容があるだろう。どれほどの深みがあるだろう。
面と向かって、身振り手振りを駆使しても伝えることが困難なことこそ、文章で表現してみる価値があるのだ。マンガやドラマの代替物ではないのだ。
文章を書く動機は、文章を読んだから。
何かキッカケがあって、それを伝えなければならないと思ったから、というのは欺瞞。言えばいい、話せばいいのに、わざわざ原稿用紙に向かう動機は、原稿用紙に向かいたいから。後世に残したいから、というのも欺瞞。何も本人が書く必要はない。石に刻む、録音するという手段もある。
「単純」とは、努力・精進の果てに漸く辿り着くことができる、尊いものであるようだ。
かつては身近なところに、たくさんあった気がする。
はなさん!
エラそうなこと言って恐縮です。どうも理屈が先行してしまう私です。
電気蚯蚓、とりあえずお疲れ様でした。次回作はゼミ外ですかね。
気が向いたら「幸太」のその後、読ませてくださいな。
他人の文章を「素敵だ!」と感じるのは、例えば街中で、他人の服装を「素敵だ!」と感じるのと同様なのである。
↑そうですね。自分を知らなきゃ、飾りようもない。飾るほどの自分さえない恐れもあったりして…。
しみじみ考えさせられるお話でした。