2006年07月04日

虹を見たかい!(初稿)

蒸し暑い夏の終わりの昼下がり、ご主人は紅潮した渋面で、鼻血の出そうなほど憤って、タイヤチューブを睨んでいた。パンクの修理が間に合わず、予定していたサイクリングが中止寸前だったからだ。息苦しい、一触即発の気まずさ。オレは身じろぎ出来ず、そこから立ち去るきっかけを探していた。

数ヶ月前、奥様の提案で購入した、色違いの新品自転車2台。ところが自転車の外出は、いつもどちらか一人だった。奥様のパートと、定年近いご主人の仕事で、休日が合わなかったからだ。だからこの日は、二人揃って初めてのサイクリングなのだ。

自転車の脇で、群がる薮蚊と格闘しながら、汗だくで修理に取り組むご主人。「ああ、くそっ」とか聞こえると萎縮してしまう。目が合ったら蹴飛ばされそうな雰囲気だ。

前日ご主人は、空気入れやカッパや修理具など買い込んで、晩は地図を広げ、奥様と深夜まで話し合って、いつになく陽気なご様子。幸せなご夫婦の邪魔をすまいと、オレは早めに寝床についた。

当日の朝、普段より早起きして、弁当の準備をしていた奥様は、オレにお裾分けしてつぶやいた。「嬉しい朝よねえ。」
どちらかというと古風な奥様だが、この日に限って鼻歌まじりで、決して若くないご夫婦の昼食にしては、ずいぶんな量の弁当をこしらえていた。ご夫婦の間に子供がいたなら、年相応に老けていたかも知れないし、オレはここに居なかったかも知れない。

ご主人が不似合いなデイバックを背負って、奥様は珍しくジーンズをはいて、「さあ」と自転車にまたがったところで問題が起きた。前日まで何ともなかった奥様の自転車の、タイヤの空気が無い。すぐにご主人が空気を入れ直して出発したが、5分もすると自転車を引いて帰ってきて、「すぐ済むよ。」とオレにウインクしてパンク修理を始めた。

チューブを引っ張り出して、空気を入れて、洗面器に汲んだ水にそのチューブを入れて、空気が漏れている穴を見つける。そしたら、穴の周辺を紙ヤスリで粗くして、ゴムのりをまんべんなく塗り付けて、替ゴムを貼ってトンカチでバンバンバンって叩くんだ。ご主人は、さも楽しそうに説明しながら作業した。うん、うん、と頷きながら横で見ている奥様は、頼もしいご主人にうっとりしていた。

ところが10分経っても20分経っても、破損個所は見つからなくて、奥様は頑張って姿勢を変えずに待っていたけど、ご主人は苛つきはじめ、「自転車屋探してくる」と言って、プイと一人で出掛けてしまった。仕方なく奥様は、一旦家の中に戻って、ご主人のためにお茶の準備を始めた。

ご主人は結局、1時間位して自転車を引いて戻り、再び黙って修理開始。奥様が気がついて家から出てくると、「店、閉まってた」とだけしか言わない。オレは気を遣ってご主人に愛敬振りまいたが完全無視。今度は奥様がご主人に気を遣って、あれこれ話し掛けたが、ご主人は気を遣われれば遣われるほど苛立つご様子。だからオレは遠巻きに見ているしかないのだ。

ご主人は、脇目も振らずああでもないこうでもない、と作業を続けている。「ああ、もお」とか言って振り出しに戻ったり「ちぃぃ」とこれ見よがしな舌打ちをしながら。すると奥様も落ち着かなくなってきて、「またにしましょう」「お弁当食べよう」と言った。言ってしまったのだ。

奥様が言った後「カチン」とどこかで音がした。ご主人の顔は、見る見る赤くなり、オレは怖くなってひるんだ。奥様も、その場で固まってしまった。ご主人の瞼は厚みを増して瞳が暗くなり、その手は奥様同様、ぴたりと動かなくなった。怒りのぶつけどころは?オレか?

そのまま皆、しばらく黙っていた。
「昨日、私がちゃんと確認しなかったから。ごめんなさい。」と奥様が口火を切った。
「なんでお前が謝るんだ!」そう叫んでご主人は、水を張った洗面器を全身で蹴飛ばした。オレは身を引いて難を逃れたけれど、奥様のジーンズはびしょ濡れ。
「ごめんなさいって言ってるじゃない!」
「だから!お前が謝るな!」

奥様は手で顔を覆ったまま立ち尽くしていた。ご主人は、狂った機械のように、チューブへの空気を入れはじめ、怒りの矛先となったタイヤチューブは、元の2倍以上に膨れていた。ご主人が手を休めたとき、微かに空気の漏れる音がして、眼を腫らした奥様が、洗面器に水を汲んだ。ご主人が、巨大なチューブの点検を始めると、

ぷしー

一瞬、洗面器から飛沫が昇った。ご夫婦は、チラと目を合わせ、すぐに洗面器に視線を戻した。「ここだあ」ご夫婦は揃って目頭を熱くしていた。
「ちょめぞう、来い!」オレは、ご夫婦に呼ばれて、思わず尻尾を振って近づいた。ご主人が何度も「ぷしー」とやって、二人で飛沫を見て泣き笑いしていた。
「見ろ!」ご主人と同じ方向を見ると、自転車を跨ぐくらいの小さな虹が架かっていた。
オレは初めて虹を見た。とても綺麗で、うれしくて、何度も何度も虹に向かってジャンプした。

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村松恒平責任編集/ブログ文芸誌 『電気蚯蚓は宇宙を夢見る』参加作品として、文章学校「文章ゼミX」提出(2006.7.1)。

Posted by chitoku at 2006年07月04日 00:58 | トラックバック
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