東北と呼ぶほど首都圏から遠くない、山間の渓流を遡った道路の終点にある、一軒宿の温泉旅館に来ている。首を吊ろうというのではない。ものが書けない日が何日も続いたので、気晴らしに来たのである。何か書けるかも知れないと思ったが、日中は、散歩や入浴に費やしてしまった。
もし本当に首を吊る気で来ていたとしても、この静けさと、ゆったりした時間の進み具合は、改めて「首を吊ろう」という気を起こさせまい。
そう言えば、私が中学生だったとき「首吊り」という遊びが、クラスで流行った。ジャージをひも状にひねって、一人が首にかけ、もう一人が後ろからジャージを引っ張って、先の一人を背負う。その背中で仰向けにのけぞって「首吊り」の状態になると、「落ちる」のである。格闘技で言う、「絞め落とし」の状態で、落ちた者はしばらく気を失ってしまう。誰かが落ちるのを見ていれば、「落ちたー」と大笑いしたし、実際に落ちてみても具合の悪いものではなかった。背伸びをしたときの立ちくらみに似ていた。ところがそのうち、失禁するものや、頭を打って嘔吐するものが出て、「首吊り」は学校によって禁止された。
しかし、一度覚えた「落ちる」快楽は、学校で禁止されたからと言って忘れられるようなものではなかった。それ以後私は、背伸びの立ちくらみを利用して、「首吊り」同様の快感を求め続けたのだ。それは、毎晩の習慣になった。
就寝の2時間くらい前から本や漫画に没頭し、かなり体がこわばってきて、そろそろ寝ようという時に椅子、あるいは布団から立ち上がり、両手を高々と伸ばして一気に背伸びをする。反り過ぎて後ろに倒れそうになる体を、少し足を引いてバランスを保ちつつ、それでも背伸びの力を緩めない。背伸びが極まると、最初に聴覚がぼやけてくる。周囲の音が聞こえなくなるが、カラのカセットテープを聴いているような雑音で満たされる、とでも言うしかない状態。
次に視界が狭くなる。目は閉じないよう心がけた。倒れた時に危険だからだ。伸びきった時には天井を見ているが、視界が狭くなると周囲の壁や戸袋が見えなくなって、少しずつ天井の焦点も合わなくなってしまう。
その辺りで遂に、平衡感覚に狂いが生じて、体がぐらつき始める。来た、と感じた時には、ここが非常に残念なのだが、足の力を抜いて膝を落とす。足を張ったままだと、恐らく直立のまま倒れ、壁や箪笥に頭を打つ危険があったからだ。ともかく、足から崩れた時には、もう体をコントロール出来なくなっていて、敷きっ放しの布団の上にドタリと倒れこむのだ。
この後のことを説明するのは、少々難しい。
布団にうつ伏せて、目の前のシーツの皺の盛り上がりを間近に見ている、そして終わったことを悟るまでの数十秒間…。
倒れた時に、倒れたことは分かっているのだけれど、その瞬間の前後から記憶があいまいになってしまう。目を開けていたか閉じていたかも定かでないし、眼球がごろごろ動いていたような気もする。しかしながら、何も見なかった、聞こえなかった、考えなかったとは感じないのだ。むしろ数え切れないほどのイメージが、浮かんでは消えていたような気がする。日々の出来事や、直前まで読んでいた本や漫画とは全く関係の無い、雑多なイメージ群。そして、布団の糸くずなどを鼻先に見ているときには、ああ倒れていた、気を失っていた、と確認して、我に返ってしまうのである。
ところで最近になって、また新たに「首吊り」同様の快感を求める方法を会得した。これは、前述の立ちくらみよりも、「絞め落とし」に近い。
自宅であれば寝転んで、仕事場の椅子に座っていたなら、浅く腰掛け、なるべく体をまっすぐにして、両手を首の後ろで組む。出来るだけ深く、出来るだけ後方で組み、そのまま両手首で頬を挟みながら、両肘を出来るだけ近づける。これだけでも、耳の下辺りの頚動脈か何かが圧迫されて、血行の良くない時には眩暈がする。さらに、大きく息を吸い込んで、吐きながら首を内側に折るのだ。顎が胸につき、もっと顎がめり込むように、内に内に折り込もうとするのだ。すぐに背中の伸びを感じ、視界が暗くなる。同時に聴覚も痺れたように鈍くなり、何も考えられなくなってしまうのだ。それでも不思議なことに、勝手に力が緩むということはない。何も考えてはいないけれども、内に内に、とは思っているのかも知れない。また、立ちくらみ利用の時とは異なり、「雑多なイメージ群」が出てこない。その意識不明瞭な時間が、はたしてどれほどなのか分からないが、だんだんと遠くに物音を聴き、目の前の自身の腹部などを認識し始める。戻っている、と思い始めると、次第に腕の力が抜けてゆく。折れた首が元に戻るのに合わせて、視界が移動するが、たいてい焦点が合わず、小刻みに揺れていたりする…。
以前の「立ちくらみ」利用は、「立ちくらみ」なだけに、立つことが条件だったので、どうしても布団の上でしか行うことが出来なかったが、今度の「首折り」はどこでも「落ちる」ことが出来る。それは、非常に魅力的な反面、極めて危険なことでもあった。
つい最近のこと、仕事場近くの公道を歩行中、何と無しに背伸びをした。私は思わず首の後ろで手を組み、歩きながら首を折ってしまった。当然のことながら、立っていても「落ちる」。視界が暗くなり、聴覚が鈍くなる、垂涎のひと時。
私は、恍惚としながら千鳥足となり、「ああ、千鳥足であることよ。」程度の意識しかなく、ヨロヨロと車道に出るや、クラクションか急ブレーキか、危険を知らせるような音を、遥か遠くに聴いたのである。
気がついたときには、すぐ近くに白い乗用車が停まっていて、その停まっている車にぶつかって、その場にストンと座ってしまった。ヤクザなベンツでなかったのが幸い、人騒がせな一幕を演じてしまった。
さて、長々と「首吊り同様の快感」について、私の体験を披露したが、「立ちくらみ」にしろ、「首折り」にしろ、決してお勧めしているわけではない。そういう「快楽」をご存じない方々への参考になればと、あるいは先日の、お騒がせした白い乗用車を運転していた方への弁解になればと思うのみである。
そろそろ、一軒宿の温泉旅館に、早朝のあわただしさが到来する。
私はペンを置き、ここの自慢の露天風呂へ行くのである。東北の、朝焼けの山並みを背景に、露天の湯船で、なるべく体をまっすぐにするのである。そして、大きく息を吸い込んで、首を内側に折るのだ。もっと顎がめり込むように、内に内に折り込もうとするのだ。
■■■文芸山脈68号通刊93号(2003/7/28日発行)に掲載されました。
Posted by chitoku at 2003年00月00日 00:00 | トラックバック