2002年00月00日

置いてきぼり小唄

くすんだ空に小雨がパラつきはじめた。
少し早めの昼にしようと県道沿いにある食堂の駐車スペースに車を停めた。古い一軒家の一階部分が食堂で、色褪せた紺の暖簾には「食堂」としか書かれていない。他に看板やノボリは無いけれども、確かに食堂らしい雰囲気ではあった。
私は空腹よりも、えもいわれぬその懐かしさに惹かれて、躊躇することなくその暖簾をくぐった。
食堂の中は、外観以上に古めかしく地味で、それ以外に殆ど特徴が無かった。
鉄足のテーブルに丸イス、ゴミのように積まれた漫画雑誌、汚れた壁に煮しめたようなお品書き。
私の懐かしいと感じた気持ちは、単なる侘しさに変わってしまった。
私は黙ってカツどんを食い、ビールを飲んだ。他に客は無く、割烹着の太った婦人も殆どしゃべらなかった。
食事を終えて食堂を出ると、雨は本降りになっていた。私は上着を頭からかぶって、小走りで車に戻った。エンジンをかけたが、急ぐ必要も無いので煙草を吸って休んでいた。
私の感じた懐かしさは何だったのだろう。
私はしばらくの間、降りしきる雨とワイパーのやり取りを車の中で見つめていた。

タシーッタン、タシーッタン、タシーッタン、タシーッタン、タシーッタン、…

私は、ワイパーの音をも懐かしく感じた。
今と同じような心持ちで、同じように聞くともなく聞いていたことがある、単調で侘しいワイパーの音。
…その日も同じように雨が降っていた。
幼稚園に入る前だったと思われる私は、父と二人で車に乗っていた。父が運転し、私は後部座席に座っていた。どこからどこへ行こうとしていたのか、私には全く思い出せないし、当時の私にも分かっていなかっただろう。
父はいつものように不機嫌で、終始黙って運転していた。私は慣れたもので、父の顔色を伺い同じように黙って、しかしいかにも楽しそうに座っていた。
ところが幼い私は、ついに退屈に耐えかねて「寝たふり」を始めた。後部座席に横になって、車の窓から雨降りの空を眺めていた。
雨と暗い空の他には、電柱とそれをつたう電線の流れしか見えなかったが、たまに交差して流れる電線を楽しんでいた。赤信号で停車中の時には、ワイパーの音が際立った。

タシーッタン、タシーッタン、タシーッタン、タシーッタン、タシーッタン、…

雨は降り続き、父は黙ったまま、やがて車は道路を外れて耳障りな砂利音を立てて停まった。
私は、好奇心にかられて飛び起きたかったが、寝たふりを続けていた。父に呼ばれてから、欠伸のひとつでもして、眠そうに目覚めなければならなかったからだ。
ところが父は、一度後部座席を覗いたきり、傘を開く用意などしていた。
“置いてきぼり”の不安もあったろう、私は少し唸って寝返りの真似などした。
それでも父は、「すぐだから、寝ててな」と車を出て、ロックしてしまった、行ってしまった!
思わず体を起こすと、雨降りの向こうに、大きめの一軒家に入っていく父の後ろ姿を見ることが出来た。そこが車から近いこともあったので、私は不安ではなかった。それよりも退屈さを忍ばねばならなかった。
雨に打たれる車の中で、すぐだから、すぐだから、とつぶやきながら、父が戻るのを待っていた。相当長い間、じっと待っていた気がする。
いつしか父は車に戻り、何事もなかったように、車は動き出した。「どこ行ってきたの」と後部座席から身を乗り出した私には、「危ないぞ」という返答しかなかった。
相変わらず、雨は降っていて、父は黙って運転していた。
私は退屈しのぎに、ワイパーの音を口ずさんでいた。

タシーッタン、タシーッタン、タシーッタン、タシーッタン、タシーッタン、…

あの時父は、どこで何をしていたのだろう。
当時の私も、ずいぶん不自然な印象をもっていた気がする。
一軒家に入っていく父の後ろ姿、一軒家に入っていく父の後ろ姿。
暖簾をくぐる後ろ姿!
懐かしいはずだ、この一軒家こそ、父はこの食堂にいたのだ。
そうして私は、懐かしさの根拠を正しく理解した。
もともと父は小さい子供が苦手で、私の友達や親戚の子供はおろか、幼い私からも遠ざかっているのが常だった。だからと言って、今更父を恨む気持ちにはならないし、当時の私も、戻ってきてくれた父を優しいとさえ感じていた。
それにしても感慨深い、この懐かしさ。私はもう、当時の父と同じくらいの年齢に達している。父はこの食堂で、私を置いて一人で食事をしたことを覚えているのだろうか。いずれ、それとは知らせずに、父とこの食堂に来てみるのもいい。
そろそろ駐車場を出ようと、短くなった煙草を灰皿で消そうとした時である。
私は一瞬、息が止まるほどの動悸に見舞われ、すっかり我に返ってしまった。
恐る恐る後部座席を振り返ると、熟睡していたはずの、2歳の長女と目が合った。
「タシーッタン、タシーッタン、…パパ、どこ行ってきたの」

Posted by chitoku at 2002年00月00日 00:00 | トラックバック
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