『火星パンダちとく文学』情報は、未確認迷惑ブンガク物体ブログで!

旧地下城の最近のブログ記事

日頃お世話になっている「文章学校」の村松さんから、現文章ゼミ仲間のぱん駄さん、火星さんと私とで一冊の作品集を出そうと提案いただいたのは、今から一年以上前の話...。
今年になって、ようやくその企画が本格的に動き出し、1月に2回の打ち合わせを経て、タイトル、書籍体裁、著者近影など決定。それをふまえて今後、専用ブログにて随時お知らせ、及び告知に励む段階となりました。
未確認迷惑ブンガク物体ブログ

とはいうものの。。。
作品の内容を考えると、ちょっとお知らせしにくい方面があるわけです。家族、親戚、その他勃起ネタや恍惚ネタに嫌悪感のありそうな方面...。
また、私のネットワークにおいて薄くとも量的に最大な勤務先への告知に関しては、昨今の就業事情を考慮すれば「切り捨て候補」と見做されかねないかも。
逆にそういう不安を踏まえて、孤立チャンス!などと思ってみたり。ハハハ!

いずれにしても、長い間地下において悶々としていた私、地上に向かって唾を吐いては自らその唾を浴びていた私が、何はともあれ憎々しげに睨んでいた地上に出ることになります。
...地下城、どうしよう?
クールに閉鎖といきたいところですが、「捨てる技術」など持ち合わせておらず、まだ検討中です。記念すべき出版期日は2009年4月中旬の見込み。それまでには、地下城のその後の体裁を決定したいと思っています。

選択の理不尽

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私は選挙が心底嫌いで、今まで一度も投票したことが無いのです。
理由を尋ねられても、その都度「よく分からないから」「興味ないし」と取り合わなかったけれども、信頼できる人から改めてその理由を問われ、また長女が5歳ということもあり、多少真剣に考えてみたのです。

・政治が分からない
・各政党の違いが分からない
・立候補者をよく知らない
・選挙の制度を理解していない
・投票しても責任が持てない
・知らない人や政党を支持するということの不快
・休日を使うことの不快
・興味がない
・勉強や調べものが面倒くさい
・国民主権、国民が選ぶという体裁のうそ臭さ
・多数決が民意の多数派しか反映できないこと

一生懸命考えて、箇条書きにしてみたけれども、当たっていそうで、全部違う気がする。投票に行かない別の誰かを想像して語らせた台詞のようなヨソヨソしさ。

投票...。
小中学校や高校で生徒会長とか委員長とか決める時にも、投票は行われた。俺はやっぱり嫌いだったし、出来るだけ避けていた。実際すっぽかしたこともあったと思う。
だって単純に、友人関係が難しくなるし、負けた方が気の毒だし。
今でもあるんだろうか、小学生の生徒会長選挙戦。俺の記憶では、先生達もやけに厳粛な面持ちで、体育館に投票箱があって、列を組んで順番に、小箱の中に票を落とした。立候補した候補者達は、全校集会で演説していたと思う。みんな、自分のクラスの仲良し君に投票するわけだけれども、まれにクラスの生徒数の半分しか得票できなかったやつがいたりして、号泣しているのをみんなでニヤニヤ見物していた記憶もある。少なくとも、明るく楽しい思い出ではない。
国政選挙とは違うか?否、本質は良く似ている。
ただし、授業の一環かどうか知らないけれど、半強制的に参加させる学校内選挙の方が性質が悪い。立候補にしても、裏で先生が任意の優等生に入れ知恵していたし。そんな茶番でさえ、投票する側は、誰かを選ばなければならない。
例えば俺は、けんちゃんとも橋本さんとも市川君とも仲良しでいたいのに、誰か一人を選ばなければならなかった!
投票の後、誰に投票したか聞かれるのが恐かった。告白の勇気は無かった。
選挙で投票した人は、尋ねたら教えてくれるのだろうか?

誰か一人を選ばなければならなかった...
幼少の頃、父か母かいずれかを選べと、本人達から問い詰められたことが何度かあった。
「おい!ばばあと実家へいくか!え?」
「こんな所にいるとろくな目にあわんよ!」
「てめえは黙ってろ!おい、自分で決めろ!」
「言いなさい!どっちがいいの!」
もちろん、ギャア泣きする他なかった。間違っても、どっちがいいなどと口に出来ない。小さい子供にとって、親に好きも嫌いもない、優劣もない。どちらからも同じようにかまって欲しいのである。

選択の理不尽とは、私のとても古い、悲しい記憶なのでした。
私の、かなり深い部分に澱んでいる、性格決定因子。
任意の誰かを選ばなければならないことに対する私の嫌悪は、平たく言えば、ある種のトラウマだったわけです。

公開日記の残酷

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退屈な毎日というわけでもないのに、書くことが無いと感じるさびしさ。
通勤して、仕事をして、子育てをして、考え事をして、あれもこれも、あれもこれも。
書きたいことを書くのは無理です。言いたいことが言えないように。
書けることを書く?駄目、全く魅力が無い。
書くべきこと?何も無い。書くべきでないことならたくさんある気がする。
この一連の文にしても、書きたくないことだったりして。
でも、こうして書いているのは、さびしい理由があるのです。
息を殺して、そこかしこに潜んでいる同類!
彼らに、「その通り!」と言わせたく、恐る恐る書くのです。
同類でなければ、取り付くシマはなく、リアクション不能。
俺はそれを恥じて、赤面しつつ引き下がる。
旗を持って雑踏に繰り出す同類を、俺こそ潜んで待つべきか。
ごらんなさい、結局エセ国語教師の思うツボ、曰く「書けないなら書けないということを書け」。
電車に乗って、勤務して、家族の面倒を見て、考え事をして、それらを書けない切なさ。
毎日、これほど興味深い出来事があるというのに!

さて、うまく言えないから、書くことで補うつもりではなかったか?
話すのがヘタクソだから、文章を利用したのではなかったか?
どうやら、話すことと書くことが混ぜこぜに合わさってしまったらしい。
言葉未満の頭の中のソース。
それは独りよがりで、攻撃的で、意地悪で、醜いものです。
だから相手に気を遣い、礼儀正しく、選んで絞って考え考え、毒の無い一滴を抽出する。
そんな会話が億劫で、黙り込んだのではなかったか。
書くことでも、事情は同じだったわけだ。
今まで書いたものが、急に白々しく思えてくる。
害の無いよう、細心の注意を払っていたような気がする。
いっそ、開き直って毒虫になろうか。
「有害日記」はどうだろうか。

断章2005-2006

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実に単純なことだけれども、書いた文章の一番最初の読者は、書いた本人なのです。その本人が「変だ」と気が付かなければお話にならない。
自分の文章が気に入らないというとき、きっとその読みは当たっています、どこか変なのです。
自分の文章がとても気に入った、というときは要注意です。公表しても評判よろしくないとすれば、書く技術云々よりも「読者としてのレベル」を疑う他ない。つまり、一番最初の読者の「読みレベル」が低いのです。

書くことによって、何かを伝えたい、表現したいということだとすれば、何故書くことでなければならないのか。
話せばいいじゃないか。
何故、書くことに執着するかと言えば、他人の文章に魅せられて、こんな風に書いてみたい!と思ったからに他ならない。

他人の文章を「素敵だ!」と感じるのは、例えば街中で、他人の服装を「素敵だ!」と感じるのと同様なのである。
そのとき、その素敵な洋服やアクセサリーと同じものを身に着けたとしても、同じ効果が殆ど期待できないことを我々は知っている。その人、その人の体型、その人の顔つき、身のこなし、またそれぞれの組み合わせ、ほぼ無限の選択範囲から任意のひとつを選択することの困難さ!それは良く知っているのである。

我々は、「聞く」ことができなければ「話す」ことが出来ない。逆に、「話す」ことが出来ている時、「聞く」ことができるのは自明のことである。同様に、読めなければ書けないのである。更に言えば、正しく読めなければ正しく書けないし、深く読めなければ深みのある文は書けない。

文章そのものを読んで、その表現方法や語彙または構成などを研究しようとする時、内容やストーリーは二次的なものであり、文章そのものに直接関係はない。語彙を読み、係りを読み、それらを統合して初めて、文章の内容を知ることが出来る。

読む側に「読解」の努力が無ければ、書く側の意識も下がり続けるだろう。
「読解」の必要がない平易な文章に、果たしてどれほどの内容があるだろう。どれほどの深みがあるだろう。

面と向かって、身振り手振りを駆使しても伝えることが困難なことこそ、文章で表現してみる価値があるのだ。マンガやドラマの代替物ではないのだ。

文章を書く動機は、文章を読んだから。
何かキッカケがあって、それを伝えなければならないと思ったから、というのは欺瞞。言えばいい、話せばいいのに、わざわざ原稿用紙に向かう動機は、原稿用紙に向かいたいから。後世に残したいから、というのも欺瞞。何も本人が書く必要はない。石に刻む、録音するという手段もある。

「単純」とは、努力・精進の果てに漸く辿り着くことができる、尊いものであるようだ。
かつては身近なところに、たくさんあった気がする。

書きなぐり 久々

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「書く」ことについて、いろんな、実に様々な話を聞き、本を読み、書き、考え考えして、つまり「書く」とは何か、ちっとも答えが出てこない。
「自己表現」には違いない、たしかにそうだとしても、個々の自己表現に、本人以外の誰に価値があるだろう?どんな「自己表現」が、他人にまで価値あるものになろう?名も無き個人の表現に、誰が金を払うだろう?
逆に、どうして他人の「自己表現」に金を払うのだろう?
それは、自己表現の代行ないし代弁であるから。自己を投影し得る、人間の共通の何かを表現出来ているから。
究極の自己表現は、他者表現となる。
我が自己表現、転じて他者表現となれ!さもなくばドブに捨てよ!

地下城INDEX

★2009年6月末日まで「chitoku TシャツSHOP」にて、カブトTシャツご購入の方に『火星パンダちとく文学』進呈中!⇒お申込みはメールで、Tシャツの注文控えを添付して、chikajoアットマークchitoku.netへ送信してください。(注:Tシャツの返品はご遠慮ください。。。)

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プロフィール

■chitoku(ちとく) 1969年山梨県生。様々な業態、職種で会社員として勤務する傍ら、『文芸山脈』同人を経て「村松恒平 文章学校」の案内係としてメルマガ編集・発行及び「文章ゼミ」運営に参加する。「文集 地下城」は詩歌を含む習作掲載サイト。2009年4月、同門の上野家ぱん駄、火星紳士との合体作品集『火星パンダちとく文学』で掌編小説作家としてデビュー。

火星パンダちとくのちとくです。

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