いつか私は、知らない場所を歩くのだった。
目にするのは、全く記憶に無いものばかりだ。
今も、まるで見たことの無い、深くて暗い、公園の噴水くらいの大きさの、眠ったような窪地の前で立ち往生している。
そこで、迂回しても、飛び込んでも、あるいは立ち小便とか、埋め立てとか、一切は自由なのだった。
辺りに散らばって私を見ている、ぼんやりした人たち。
見たことのない周囲の建物。
見たことのない電柱。
全く記憶にない看板や鳥や空までも、私を見ているだろうか。
考えあぐねて私は、後ろにいる、おじいちゃんの上半身に聞いた。
この窪地に呼び名はありますか。
こまごもりだよ。
ふうん。
私はおじいちゃんを踏み台にして、くもり空に向かって、高々と舞い上がる。
離れて見るこまごもりは、暖かくてやわらかいのだ。
人々や建物たちは、一様に肩を震わせていた。
こらえながら笑っているのだった。
こまごもりは、恥ずかしがるように広がり、ネオンライトのように色をいくつも変えながら、こんもりと盛りあがるのだった。
私は、盛りあがるこまごもりに向かって落下する。
ところが、こまごもりも同じ速さで落下しているらしく、私はいつまでたっても、受け入れられないのだった。
こまごもりを知っているのに。
60歳目前の生命保険セールスレディ。一度喋り出すと止まらない。自分の喋りに自分で大笑いして、キャハハと銀歯を見せる。彼女の話に反駁すると、いっそう大声で、かつ早口でまくしたてられる。そして、彼女は口で負けると「悪うごさいましたっ」と開き直り、逆に勝つと「ほれみろ」と鬼の首でも取ったかというような態度に出る。常に自分が正しいのだろう、彼女からごく普通の謝罪の言葉を聞いたことがない。自分の非を認めることが出来ないのだ。それによって、我が身の全てを否定されるように感じるのかも知れない。よって常に、彼女は話す相手に対して一方的である。非常に話しにくい人、取り付く島のない婦人、私の母親!
内向的で気が短い。言葉少なく、表情で分からせようとする。苛立ちやすく、苦虫を噛み潰したような顔をしていることが多い。仕事は非常に真面目で、営業職に誇りを持っている。そのためか、家庭内では些細なことに腹を立て、身近なものを投げつけ、妻子を殴り、酔ってわめき散らす。何につけ妻のせいにするが、本人は自分の短気であると分かっている。しかしながら、笑顔の作り方を知らず、家族サービスの方法を知らず、身内に対して営業しない。本音の会話が照れくさく、あえて他人の理解を求めない、それでいて人一倍承認の欲求が強い、「分かってくれ」と決して言えないジレンマの人、私の父親!
夜になって、俺は不祥事の発生時にどんなメールを見たのか確認しなければならなかった。該当メールを現場リーダーに知らせるよう指示があったからだ。
ところが、9月12日から13日にかけて、メールの履歴は殆どなかった。
実際、俺はWEBメールにアクセスしたが、そのメールアドレスは転送設定のアドレスで、閲覧しようにもメールはサーバーに残らないのである。ところが、覚えていないものだから、余計な嘘をついてしまっていたわけだ。仕方がないので、該当日の半日ほど前に受信している知人のメールマガジンを該当メールと見做して、現場リーダーにメールを打った。
いずれにしても、業務規約の違反であることは変わらない。ツイてない...、ダンマリ決め込むしかないと観念した。
次の日は夜勤だったが、夕方のミーティング時に俺は招集されず、別室で現場リーダーと時間を潰すことになった。恐らく、この事件に関する注意や事態の現況について語られており、現場の別会社メンバー(発注要員)への配慮などがあったと思うが、俺はすっかり味噌っかすであった。その日の夜勤は、WEBどころかブラウザさえノータッチで過ごした。
翌日、夜勤明けで自宅に戻り、仮眠し終わった金曜日の夕方、現場リーダーから電話が来た。
「今日であなたは現場終了です、連休はゆっくり休んでください」
シフト勤務の現場は、土日も祝日も関係なく、秋の5連休は中2日以外勤務の予定だったが、急に5日間空いてしまった。家族には単に、現場勤務が終了したと伝えた。
親を恥じる心。
親の体臭を厭う心。
親を見下す心、蔑む心、憐れむ心。
その心はやがて、
親の心をゆがめ、ねじ曲げ、こわばらせ、
おはようの挨拶さえ、
噛み合わず、ぎこちなく、
食卓に会話なく、日常に軽口なく、
親を恥じる心なきあとも、
楽しき団欒の戻ることなし。
正直な心は親を恥じ、家族を失う。
※旧地下城から転載。
2002年5月20日の創作です。家族!かぞく、カゾク...過俗?たかが家族、されど家族!生涯テーマのひとつです。
夕方、俺と現場リーダーの二人が、部長に呼び出された。ビルの一階にある喫茶室で、今回の不祥事についての説明と訓示を受けた。
部長によれば、三か月前に社会的にも注目された情報漏えい事件が起きたばかりのこの現場で、起きてはならないことが起きてしまった、と客先では非常に憂慮すべき事態と見做しており、俺の知らない間に社長始め主要役員は謝罪訪問済みであった。
「例えば、盗んじゃいけないという約束があれば、1円だって盗んだら違反なんだよ」と営業部長は力説した。現場全体も意識レベルが低いと、現場リーダーは俺以上に責められているように見えた。
つまり、俺の軽率なWEBメールアクセスが、客先にとっては契約解除を検討せざるを得ないと厳しい評価を受け、会社は役員総出で事態の収拾に奔走し、現場でも俺以外に業務以外でネットにアクセスしていた者はいないか等厳しく追及されているという事態を、先ほどまで俺一人だけ知らなかったのである。
俺は、今回の件を概ね理解し、弁明や言い訳はもとより、殆ど何も言えない立場に置かれていると自覚した。許しを乞う言動さえ打算的で不謹慎であるから、完全な指示待ち状態にならざるを得なかった。
その場は一時間ほどで、俺は現場に戻された。現場では、通常通りの業務が行われていたが、俺に指示や依頼は全くなかった。
続く......


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